今や、円谷幸吉を知らない若者は多いかも知れない。しかし記憶している人も多いだろう。
彼のよく知られた遺書がWikiに掲載されているから引用してみよう。確かに玄人の詩人には書けない真実があって、私などは胸うたれるものがある。
遺書の全文(原文ママ)
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父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿
もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒
リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様
ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様
往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
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余談だが、川端康成や三島由紀夫は此の遺書を褒めている。
しかし石原慎太郎は彼の著書『わが人生の時の人々』だったと記憶しているが、川端や三島の此の遺書への「共感」を批判、というまででもないが、少し反論している。
川端や三島は真のアスリートの心情を知らないのではないか、と石原は書いていた。
いずれにせよ、この遺書は、たとえ今の若者たちが知らなくても、何かの機会で知れば、恐らく、私同様に 「ジンとくる」 ものがあるだろう。
2014年12月10日水曜日
2014年11月17日月曜日
梁塵秘抄
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。
高市黒人(たけちのくろひと)の羇旅歌
何処(いづく)にか船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎
漕ぎ回(た)み行きし 棚無小舟(たななしをぶね) (万葉集巻一、五八)
旅にしてもの恋(こひ)しきに やましたの
朱(あけ)の赭船(そほぶね) 沖に漕ぐ見ゆ (同巻三、ニ七〇)
(注:「赭船」とは赤い色の土を塗った船のこと)
率(あども)ひて漕ぎ行く船は 高島の安曇(あど)の水門(みなと)に
泊(は)てにけむかも (同巻九、一七一八)
2014年10月19日日曜日
ゲーテの言葉
いかにして人は己を知ることを得べきか。省察をもってしては決して能わざらん。されど行為をもってしてはあるいはよくせん。汝の義務を果たさんと試みよ。やがて汝の価値を知らん。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。
(森鴎外訳『妄想』より)
(森鴎外訳『妄想』より)
2014年10月9日木曜日
春望 杜甫 作
春望 杜甫 作
くにやぶ さんがあ国破山河在 国破れて山河在り
しろはる そうもくふか
城春草木深 城春にして草木深し
とき かん はな なみだ そそ
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
わか うら とり こころ おどろ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
ほうかさんげつ つら
烽火連三月 烽火三月に連なり
かしょばんきん あた
家書抵萬金 家書萬金に抵る
はくとう か さら みじか
白頭掻更短 白頭掻かけば更に短く
す しん た ほっ
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す
くにやぶ さんがあ国破山河在 国破れて山河在り
しろはる そうもくふか
城春草木深 城春にして草木深し
とき かん はな なみだ そそ
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
わか うら とり こころ おどろ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
ほうかさんげつ つら
烽火連三月 烽火三月に連なり
かしょばんきん あた
家書抵萬金 家書萬金に抵る
はくとう か さら みじか
白頭掻更短 白頭掻かけば更に短く
す しん た ほっ
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す
PETER HANDKE, "LIED VOM KINDSEIN"
PETER HANDKE, "LIED VOM KINDSEIN"
1. Strophe
Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
wollte, der Bach sei ein Fluß, der Fluß sei ein Strom,
und die Pfütze das Meer.
Als das Kind Kind war, wußte es nicht,
daß es Kind war,
alles war ihm beseelt, und alle Seelen waren eins.
Sah den Horizont, ohne sich hinzuflüchten,
konnte sich nicht beeilen,
und nicht auf Befehl und auch nicht vorsätzlich denken.
Als das Kind Kind war,
hatte es von nichts eine Meinung,
hatte keine Gewohnheit,
saß oft im Schneidersitz, lief aus dem Stand,
hatte einen Wirbel im Haar
und machte kein Gesicht beim Photographieren.
第1章
子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った
子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ(```)
カメラを向けても 知らぬ顔
2. Strophe
Als das Kind Kind war, war das die Zeit der folgenden Fragen:
Warum bin ich ich, und warum nicht du?
Warum bin ich hier, und warum nicht dort?
Wann begann die Zeit. und wo endet der Raum?
Ist das Leben unter der Sonne nicht bloß ein Traum?
Ist, was ich sehe und höre und rieche,
nicht bloß der Schein einer Welt vor der Welt?
Gibt es tatsächlich das Böse, und Leute,
die wirklich die Bösen sind?
Wie kann es sein, daß ich, der Ich bin,
bevor ich wurde, nicht war,
und daß einmal ich, der Ich bin,
nicht mehr Der-ich-bin sein werde?
第2章
子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?
1. Strophe
Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
wollte, der Bach sei ein Fluß, der Fluß sei ein Strom,
und die Pfütze das Meer.
Als das Kind Kind war, wußte es nicht,
daß es Kind war,
alles war ihm beseelt, und alle Seelen waren eins.
Sah den Horizont, ohne sich hinzuflüchten,
konnte sich nicht beeilen,
und nicht auf Befehl und auch nicht vorsätzlich denken.
Als das Kind Kind war,
hatte es von nichts eine Meinung,
hatte keine Gewohnheit,
saß oft im Schneidersitz, lief aus dem Stand,
hatte einen Wirbel im Haar
und machte kein Gesicht beim Photographieren.
第1章
子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った
子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ(```)
カメラを向けても 知らぬ顔
2. Strophe
Als das Kind Kind war, war das die Zeit der folgenden Fragen:
Warum bin ich ich, und warum nicht du?
Warum bin ich hier, und warum nicht dort?
Wann begann die Zeit. und wo endet der Raum?
Ist das Leben unter der Sonne nicht bloß ein Traum?
Ist, was ich sehe und höre und rieche,
nicht bloß der Schein einer Welt vor der Welt?
Gibt es tatsächlich das Böse, und Leute,
die wirklich die Bösen sind?
Wie kann es sein, daß ich, der Ich bin,
bevor ich wurde, nicht war,
und daß einmal ich, der Ich bin,
nicht mehr Der-ich-bin sein werde?
第2章
子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?
2014年10月6日月曜日
落葉 ポ-ル・ヴェルレーヌ
落葉
上田敏 『海潮音』より
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
上田敏 『海潮音』より
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
2014年8月27日水曜日
『墨東綺譚』(永井荷風)
花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。
2014年8月21日木曜日
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
「窮地に陥った場合、自分の命は捨てたつもりになって思い切ってやれば、予想外の活路が開ける。物事は、わが身を犠牲にする覚悟があってこそ成功するものであるということ」
そうだよね。
なにもしなければ、なにも始まらない。
生命(いのち)のために・・・
生命(いのち)のために何を食い、身のために何を着んかと思いわずらうなかれ。
生命(いのち)は食物(しょくもつ)にまさり、身は衣服(いふく)にまさるにあらずや。
空の鳥を見よ、彼らはまくことなく、刈ることもなく、倉に納むることなきに、汝らの天父(てんぷ)は、これを養い給う。 (中略) また何とて衣服のために思いわずらうや、野の”ゆり”の、いかににして育つかを見よ、働くことなく、紡(つむ)ぐことなし。されども、われ汝らに告ぐ、サロモンだも、その栄華の極みにおいて、その”ゆり”の一つほどに装(よそお)ざりき。
私のプロヒール
『世の中は地獄の上の花見かな (一茶)』
又
『わたしは或雪霽の薄暮、隣の屋根に止まってゐた、まっ青な鴉を見たことがある。 (芥川龍之介)』
又
『車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近付かなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠ってゐる土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北に當って、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書斎の、寒い日の照ない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光ってゐる。然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだらう。 (夏目漱石)』
又
『花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。 (永井荷風)』
又
『 もの言ひて さびしさ残れり。大野らに いきあひし人 遥けくなりたり
旅を来て 心つゝまし。秋の雛 買へと乞ふ子の 顔を見にけり
山びとの 言ひ行くことのかそけさよ。きその夜、鹿の 峰をわたりし
(釋超空) 』
又
『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?
(パスカル・松浪信三郎訳) 』
又
『思へばこの世は常のすみかにあらず。草葉におく白露、水に宿る月よりなおあやし。金谷に花を詠じし栄花は先立って無常の風にさそはるゝ。南楼の月をもてあそぶともがらも月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。
(幸若・「敦盛」) 』
又
『昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とも知らぬわれなれど
今日は人こそかなしけれ
(中世の今様) 』
又
『年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山 (西行)』
又
『私はまたあの花火といふ奴が好きになった。花火そのものは第ニ段として、あの安っぽい繪具で赤や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火といふのは一つづつ輪になってゐて箱に詰めてある。そんなものが變に私心を晙った。 それからまた、びいどろといふ色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとって何ともいへない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時の甘い記憶が大きくなって零落れた私に蘇ってくるせゐだらうか、全くあの味には幽かな何となく詩美と云ったやうな味覺が漂ってゐる。 (梶井基次郎) 』
又
『 凧きのふの空の有りどころ (蕪村)
北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚がって居る。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚がって居た。蕭条とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまくる風。硝子のやうに冷たい青空。その青空の上に浮かんで昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚がって居る。飄々として唸りながら、無限に高く、穹窿の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂って居る! (萩原朔太郎) 』
又
『 何処にか船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ回み行きし 棚無小舟
(高市黒人) 』
又
『 あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音<あしおと>空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治) 』
又
『池水は 濁りににごり 藤波の影もうつらず 雨降りしきる
(伊藤左千夫) 』
******
『ソノシートから出てくる音楽を聞いたギャルが、こう云った。 「えー、あのペラペラしたものにデータが入っているのぉ!!!」
それはテレビをみていたときのことだったが、私は、その二十歳前後らしい娘の、さも驚いた様子をみたとき、苦笑と同時に、“あー、時代が変わったんだなぁ”という感慨を持たざるを得なかった。 なるほど、ソノシートに「記憶」されているものは、「データ」には違いない。
私は、半生を、しがない電子回路設計屋として過ごしてきた。工場の片隅で、汚れた作業服を着て、ハンダゴテやら回路図面やらと共の半生であった。私が学校に居た頃の講義は「真空管回路」であり、まだトランジスターというモノは、まさに、ウブの状態であった。学校を出て、電気工場で、設計で使った部品は、サブミニュチュア管という真空管であった。そして、その頃の残業時間での勉強会のテーマが「デジタル回路」であった!
しかし、その頃から始まったことは、アナログからデジタル化への“狂気”であった。
そう、私は、その変化を“狂気”と言って良いと思う。 またたくまに、真空管は影を失せ、トランジスタからICへ、ICからLSIへと変貌していった。 文字どおり、数ヶ月の間に、「電子部品」は「進歩」し続け、姿を変え続けた。
この、電気工場の片隅の現場で起きていた“狂気”は・・・・もし“狂気”と言うのが言いすぎならば“変貌”と言ってもよいが・・・それは、その“時代”そのものの“狂気”であり、“変貌”でもあったのだ、と私は思う。
あのギャルの、ソノシートでの「データ」への驚きは、この、私たちの過去数十年の時代の“狂気”なり“変貌”に対する、率直な驚きだったのだ、と私は思う。
いつの頃からか、この世界は、“狂気”と共存せざるを得なくなったようだ。
私たちの、身近な、前の世代の人たちには戦争という“狂気”があった。
そして、私たちが、ここ数十年で経験してきたことの“狂気”の一つは、確かに、「アナログからデジタルへ」という“狂気”であった。
2011年からテレビ放送の地上波は完全にデジタル化されるという。日本全国からアナログ放送が消えてしまうのだ。有無をいわさず、消してしまうのだ。
私は、これは、一つの象徴だと思う。
文明というものの別名は、“狂気”だということの。
これも言い過ぎだろうか?
(私:2009/11記) 』
又
『わたしは或雪霽の薄暮、隣の屋根に止まってゐた、まっ青な鴉を見たことがある。 (芥川龍之介)』
又
『車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近付かなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠ってゐる土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北に當って、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書斎の、寒い日の照ない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光ってゐる。然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだらう。 (夏目漱石)』
又
『花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。 (永井荷風)』
又
『 もの言ひて さびしさ残れり。大野らに いきあひし人 遥けくなりたり
旅を来て 心つゝまし。秋の雛 買へと乞ふ子の 顔を見にけり
山びとの 言ひ行くことのかそけさよ。きその夜、鹿の 峰をわたりし
(釋超空) 』
又
『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?
(パスカル・松浪信三郎訳) 』
又
『思へばこの世は常のすみかにあらず。草葉におく白露、水に宿る月よりなおあやし。金谷に花を詠じし栄花は先立って無常の風にさそはるゝ。南楼の月をもてあそぶともがらも月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。
(幸若・「敦盛」) 』
又
『昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とも知らぬわれなれど
今日は人こそかなしけれ
(中世の今様) 』
又
『年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山 (西行)』
又
『私はまたあの花火といふ奴が好きになった。花火そのものは第ニ段として、あの安っぽい繪具で赤や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火といふのは一つづつ輪になってゐて箱に詰めてある。そんなものが變に私心を晙った。 それからまた、びいどろといふ色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとって何ともいへない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時の甘い記憶が大きくなって零落れた私に蘇ってくるせゐだらうか、全くあの味には幽かな何となく詩美と云ったやうな味覺が漂ってゐる。 (梶井基次郎) 』
又
『 凧きのふの空の有りどころ (蕪村)
北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚がって居る。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚がって居た。蕭条とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまくる風。硝子のやうに冷たい青空。その青空の上に浮かんで昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚がって居る。飄々として唸りながら、無限に高く、穹窿の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂って居る! (萩原朔太郎) 』
又
『 何処にか船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ回み行きし 棚無小舟
(高市黒人) 』
又
『 あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音<あしおと>空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治) 』
又
『池水は 濁りににごり 藤波の影もうつらず 雨降りしきる
(伊藤左千夫) 』
******
『ソノシートから出てくる音楽を聞いたギャルが、こう云った。 「えー、あのペラペラしたものにデータが入っているのぉ!!!」
それはテレビをみていたときのことだったが、私は、その二十歳前後らしい娘の、さも驚いた様子をみたとき、苦笑と同時に、“あー、時代が変わったんだなぁ”という感慨を持たざるを得なかった。 なるほど、ソノシートに「記憶」されているものは、「データ」には違いない。
私は、半生を、しがない電子回路設計屋として過ごしてきた。工場の片隅で、汚れた作業服を着て、ハンダゴテやら回路図面やらと共の半生であった。私が学校に居た頃の講義は「真空管回路」であり、まだトランジスターというモノは、まさに、ウブの状態であった。学校を出て、電気工場で、設計で使った部品は、サブミニュチュア管という真空管であった。そして、その頃の残業時間での勉強会のテーマが「デジタル回路」であった!
しかし、その頃から始まったことは、アナログからデジタル化への“狂気”であった。
そう、私は、その変化を“狂気”と言って良いと思う。 またたくまに、真空管は影を失せ、トランジスタからICへ、ICからLSIへと変貌していった。 文字どおり、数ヶ月の間に、「電子部品」は「進歩」し続け、姿を変え続けた。
この、電気工場の片隅の現場で起きていた“狂気”は・・・・もし“狂気”と言うのが言いすぎならば“変貌”と言ってもよいが・・・それは、その“時代”そのものの“狂気”であり、“変貌”でもあったのだ、と私は思う。
あのギャルの、ソノシートでの「データ」への驚きは、この、私たちの過去数十年の時代の“狂気”なり“変貌”に対する、率直な驚きだったのだ、と私は思う。
いつの頃からか、この世界は、“狂気”と共存せざるを得なくなったようだ。
私たちの、身近な、前の世代の人たちには戦争という“狂気”があった。
そして、私たちが、ここ数十年で経験してきたことの“狂気”の一つは、確かに、「アナログからデジタルへ」という“狂気”であった。
2011年からテレビ放送の地上波は完全にデジタル化されるという。日本全国からアナログ放送が消えてしまうのだ。有無をいわさず、消してしまうのだ。
私は、これは、一つの象徴だと思う。
文明というものの別名は、“狂気”だということの。
これも言い過ぎだろうか?
(私:2009/11記) 』
『鬼の研究』(馬場あき子) 抜粋
『鬼の研究』(馬場あき子) (三一書房版『馬場あきこ全集・第4巻・古典評論』より)
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私はもういちど、<おに>と<かみ>とが同義語であったかもしれぬいう説にたちどまらざるを得ない。それは、いいかえれば人間の心に動く哀切の両面である。空気の清澄な月夜の夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日頃姿を見せぬことを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏するなど、まことに哀れである。その時、鬼の心に去来した瞬時の回想は何であったろう。吟遊の声を奪って詩の下句を付し、敬愛する詩人の門前に拝礼をなして過ぎゆく鬼の心に、常ならぬ心の高鳴りを覚えるのも、じつに、あるいはわれわれ自身が、孤独な現代の鬼であることの証拠かもしれない。 (12頁)
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この「虫めずる姫君」という短編をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿である。人びとから嫌悪される毛虫や蛇の動きに、あまねき生きものの真摯にして苦しげないのちのさのをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を感受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。(16頁)
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貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちに保ってきたそれら魂の美しさを<鬼>と呼ぶことは、ほのかな自嘲を交えた合ことばあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞である。(20頁)
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「斉明期」は七年七月天皇の崩を記し、八月一日の夕べ「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほい)を臨み視る」という記事をのせている。(27頁)
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<鬼とはなにか>を考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意思や姿であって
(中略) 爛熟し頽廃にむかいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象を受けるのである。(106頁)
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<鬼>とは破滅的な内部衝迫そのものであり、心の闇に動く行為の闇であ。あるいはそれは極限的な心情のなかで、人間を放棄することを決意した心でもある。(144頁)
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私は女の鬼について考えるとき、いつもこの(鉄輪の女)の殺害未遂に終わった場面を、ことさらかなしく美しく思い浮かべる。敗北し、守護神に逐われて深沈混沌とした心の闇に帰ってゆく鬼女の後姿にはまったく成功のかげがない。たとえもう一度、いや何度試みたとしてもとうてい夫を殺すことはできそうもないその心は、鬼と化してもなお深く愛しきっている弱さにおののいている。
(中略)
鬼とは所詮調伏されねばならぬものである。人間を放棄してまでも報いようとした怨みとはどれほどのものであったろう。その怨みゆえに鬼に変貌ののちに見たものは、悔しくも変貌しきれぬ夫への恋着であり、愛執であった。とはいえ、それがどう解決のつくことであったろう。鬼になっても、ならなくても、愛することと、愛されぬこととは、けっして解決のつかない心の闇に属することなのであって、女にはいっそう厳しく、変貌をとげてしまった現実だけが残ったにすぎないのである。 (146頁)
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『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ2
昨日に続き此の本での印象的な文章を抜粋する。
この本を読んでの私の簡単な感想を最後に書いておく。
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。
その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。
ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。 (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
------------------------------------
<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。
つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。 (148頁)
------------------------------------
それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。
般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。 (185頁)
------------------------------------
<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。
<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。
徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。 (197頁)
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。
その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。
ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。 (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
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<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。
つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。 (148頁)
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それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。
般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。 (185頁)
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<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。
<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。
徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。 (197頁)
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悲哀とは・・・
『悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴出す傷痕である。否、愛の手がふれる時すらも、痛苦でこそなけれ血ににじむものである。
悲哀のあるところに聖地がある。いつかは人々がこの言葉の意味を解するときもあろう。それを解するまでは、生命についても何物も知らぬのだ。』
(オスカー・ワイルド『獄中記』、阿部知二訳)
「扣鈕(ぼたん)」(森鴎外)
南山(なんざん)の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し
べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店なて買ひゐ
はたとせまへに
えぽれつと かがやしき友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらをの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し
べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店なて買ひゐ
はたとせまへに
えぽれつと かがやしき友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらをの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕
一つのメルヘン(中原中也)
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……
警句集
・Many talik philosophers and live like fools. (?)
・Mathematics is a suppotion. ; Not having any exceptions. (?)
・Mathematics is a suppotion. ; Not having any exceptions. (?)
・マクベス 第五幕 第五場 (W.シェイクスピア) 抜粋
She should have died hereafter;
There would have been a time for such a word.
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
There would have been a time for such a word.
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
平家物語、(鬼界が島:足摺、有王) 抜粋
「・・・その後都へ上り、僧都の御女の忍んでおはしける所へ参つて、ありし様、初めより細々と語り申す。なかなか御文を御覧じてこそ御思ひはまさらせ給ひて候ひしか。硯も紙もなければ、御返事にも及ばず。思(おぼ)し召され候ひし御事、さながらむなしうやみ候ひにき。・・・」
(『平家物語の世界』(水原一著)での解説:・・・私たちは一瞬の休みもなく次から次へといろいろな事を思い続けております。人一日一夜を経るに八億四千の思いあり、などと申しまして、とりとめもない事も、まともな事も、とにかくびっしりと思い続けている。死ぬということは、その人間の中味ともいうべき念々の思いが一切絶え、雲散霧消してしまうことなんですね。鬼界が島で生を終えた俊寛。無限の思いを抱きながら、その一切が、「むなしうや」んでしまった、その空しさこそが「死」というものなのであります。・・・)
(『平家物語の世界』(水原一著)での解説:・・・私たちは一瞬の休みもなく次から次へといろいろな事を思い続けております。人一日一夜を経るに八億四千の思いあり、などと申しまして、とりとめもない事も、まともな事も、とにかくびっしりと思い続けている。死ぬということは、その人間の中味ともいうべき念々の思いが一切絶え、雲散霧消してしまうことなんですね。鬼界が島で生を終えた俊寛。無限の思いを抱きながら、その一切が、「むなしうや」んでしまった、その空しさこそが「死」というものなのであります。・・・)
Symphony No. 2 (Mahler)
Urlicht
O Röschen rot!
Der Mensch liegt in größter Noth!
Der Mensch liegt in größter Pein!
Je lieber möcht' ich im Himmel sein.
Da kam ich auf einen breiten Weg:
Da kam ein Engelein und wollt’ mich abweisen.
Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen!
Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!
Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,
Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!
(In English)
Primeval Light
O red rose!
Man lies in greatest need!
Man lies in greatest pain!
How I would rather be in heaven.
There came I upon a broad path
when came a little angel and wanted to turn me away.
Ah no! I would not let myself be turned away!
I am from God and shall return to God!
The loving God will grant me a little light,
Which will light me into that eternal blissful life!
MEDITATION XVII (John Dane) 抜粋
No man is an island. entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friend's or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in mankind, and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee
・ゲーデルの不完全性定理について(竹内外史、「現代集合論入門」より抜粋)
・ゲーデルの不完全性定理について(竹内外史、「現代集合論入門」より抜粋)
1. Oppenheimer
(ゲーデルの)仕事は数学的議論の論理的構造をはかりしれぬほど深め、また豊かにしたのみならず、人間の理性一般における限界というものの役割を明らかにした。
2. von Neumann
ゲーデルはつぎのことを証明した最初の人である。:現在までに承認された数学の厳密な方法では証明することも、否定することもできないものがある。換言すれば、彼は決定不能な数学的命題の存在を証明したのである。彼はさらに重要な特別な命題が決定不能であることを証明した:すなわち数学がその内部に矛盾を含まないという命題がそうなのである。この結果は”自己否定的”逆理的な性格においていちじるしい。すなわち数学が矛盾を含まないということを確認することは数学的には不可能なのである。重要なことは、このことは哲学的原理や疑わしい知的方針ではなくて、極度に学問的な厳密な数学的証明の結果である。私がここに述べた表現は粗っぽい表現であり、厳密に表現したときのみごとな性質を抹殺してしまうものであるが、しかし、記号論理学のむつかしい技術的な表現を避けて定理をのべようと思えば、これができうる最善に近いかと思うのである。
1. Oppenheimer
(ゲーデルの)仕事は数学的議論の論理的構造をはかりしれぬほど深め、また豊かにしたのみならず、人間の理性一般における限界というものの役割を明らかにした。
2. von Neumann
ゲーデルはつぎのことを証明した最初の人である。:現在までに承認された数学の厳密な方法では証明することも、否定することもできないものがある。換言すれば、彼は決定不能な数学的命題の存在を証明したのである。彼はさらに重要な特別な命題が決定不能であることを証明した:すなわち数学がその内部に矛盾を含まないという命題がそうなのである。この結果は”自己否定的”逆理的な性格においていちじるしい。すなわち数学が矛盾を含まないということを確認することは数学的には不可能なのである。重要なことは、このことは哲学的原理や疑わしい知的方針ではなくて、極度に学問的な厳密な数学的証明の結果である。私がここに述べた表現は粗っぽい表現であり、厳密に表現したときのみごとな性質を抹殺してしまうものであるが、しかし、記号論理学のむつかしい技術的な表現を避けて定理をのべようと思えば、これができうる最善に近いかと思うのである。
映画「草原の輝き」の、ワーズワースの詩の当該の一節
Though nothing can bring back the hour of splendor in
the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.
草原の輝き 花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし (訳者?)
the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind.
草原の輝き 花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし (訳者?)
『実存主義』(松浪信三郎著、岩波文庫、p.99)
『パスカル、はデカルト哲学のうちに、この哲学の末流が将来いかなる方向に向かうをすでに見ぬいたいたかのようである。
パスカルはデカルトを許すことができなかった。
彼にとって、テカルトは無用であり、不確実であった。あれほど確実なものをあれほど確実なしかたで把握したと自他ともに許しているデカルトが、パスカルにとっては不確実であり、許しがたいのである。
デカルトがコギト・エルゴ・スムにはじまり、たえずそのヴァリエーションをくりかえしすに過ぎない近世の思弁哲学そのものに対する嘲笑とも受けとれる。』
パスカルはデカルトを許すことができなかった。
彼にとって、テカルトは無用であり、不確実であった。あれほど確実なものをあれほど確実なしかたで把握したと自他ともに許しているデカルトが、パスカルにとっては不確実であり、許しがたいのである。
デカルトがコギト・エルゴ・スムにはじまり、たえずそのヴァリエーションをくりかえしすに過ぎない近世の思弁哲学そのものに対する嘲笑とも受けとれる。』
(一部引用)
山本陽子の詩
10 遙かする、するするながら
遙かする
純みめ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、
わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく/りらっく
ゆくゆく、とおりながら、あきすみの、ゆっ/ゆっ/ゆっ/ゆっ/ とおり、微っ、凝っ/まっ/
じろ きき すき//きえ/あおあおすきとおみ とおり//しじゅんとおとおひらり//むじゅうしむすろしか
つしすいし、まわりたち 芯がく すき/つむりうち/とおり//むしゅう かぎたのしみとおりながら
たくと/ちっく/ちっく すみ、とおり、くりっ/くりっ/くりっ\とみ」とおり、さっくる/さっく
ちっく/るちっく すみ、とおりながら
純みめ、きゅっく/きゅっく/きゅっく とおとおみ、とお、とおり、繊んじゅん/繊んく
さりさげなく/まばたきなく/とおり、たすっく/すっく/すっく、とお、とおりながら
すてっく、てっく、てっく
澄み透おり明かりめぐり、透おり明かりめぐり澄み透おり
透おりめぐり明かり澄みめぐり、めぐり澄み明かりぐりするながら、
闇するおもざし、幕、開き、拠ち/ひかりおもざし幕開き拠ち
響き、沈ずみ、さあっと吹き、抜けながら
響き、ひくみ、ひくみ、ひくみ透おり渉り、吹く、透おり、/
先がけ、叫び、しかける街々、とおくをわかち、しずみ、//透おり交いながら、/
しずみ 、しずみ透おりひくみ、ひびき、ひくみ/つよみ透おりするながら、たえまなく
透おり交わりするながら//ひびき透おり放ち、
瞬たき、路おり乗するながら
夜として視護るごと、めばめき 帳ばり、ふた襞、はたはた ひらき 覆い/
響き、/尽くし/吹く透おり/消え、
しずみ、/ひくみ、/
ひびき透おり吹き
ふためき、はたと墜として、はたり、/途断え、やみ、蔽い
吹く、吹く、吹く、おとないかぜ透おり、おとなしかぜ渉り、
吹く、やすらぎ//すずしやぎ
りり、 りりり、りりり
夜する/ふんわり、かげろう 薄すまめぎ/口開き拠ち、
夜切り、浮きたち、ひろひろ透おり、澄み透おり透おり明かりするながら、
絹ぎ/すき/消え/さやとおり 澄まり静まり夜する口開切り拠ち
(以下割愛)
-------------------------------------
よき・の・し
あらゆる建築をうちこわし、
いかなることばを
あとにのこすな、
すべてをもえつき、
もやしつくせ、
全けき白さをひっさらって
死のとりでをひとこえよ
よきをひだにふくみのみ
さまざまなる夜をはらめ、
死のこちらには死がひそみ
種のうちには絞られた精気、
濾過した夜に
血清があった
やさしく勇気みついかりを決して決して
あとにおとすな、
よきのうちに苦しみがあり、
苦しみのあいだに割れ目あり、
黒き旋転に露しとろうと
決して それをそれとおもうな、
死がすべてをけし去っていて
全けき ものつれ去るとも
飛ぶときには
軽ろきがいた、
残した埋(も)れ木は 焼ぽっくいで
残した種は 鳥がついだ
あとをうがち、あなあしため
したたりおとした数千の、
透明な肉をすいつくし、
決して決して
環えるな
いのち白い霧吐きだすたび
星をえて 光りしない
血を亡脈に黒ずませ
こころのかたどり、雲をちぎり、
冷気ちらし、空を去らす
突破するたびに数千の綱が壁をつくった
壁はからみ しとねつき
頭のなかに 垂直がある
光こごらせ 結晶がある
にごいもてはなつ海をよび
海泡のつぶて くだけちる
かつて死んだひとりの男がいて
おまえに置言(ごと)を手渡したら
その言葉を地に埋めよ
かつてすべてが刃向かっていて
おまえの仄を噴き出したら
汗に黒さびた金属(かなもの)を
ずきずきと踏み 風にはなて
かつて死んだひとりの男がいて
かってにしやがれと呟いたとき
かってなき塩の結晶が造った
朝の食卓にピケルスがあった
かつてあったひとつの種が
身をやくたねをもとめたとき
木々は交れり火花散した
かつてある禁忌が衣、ばさりおとし
かってなきことについて
かくてかってにあるときには
魔術がひとをかなしばりする
いまは
いまわのきれなるかた、
僧侶の裸体に手濡れつくし、
身体にこれ小鐘がなると、
あけ方に骨きしむ勤行がおこる、
しぜんてきしぜんがしぜんするあいだは、
ひつぜんすべては、
おまえがうみだした卵ばかりだ
あらゆる魔術を変身しつくし
いかなるひとも
あとにのこすな
あらゆる大陸をわたりはなら
いかなるもの、いかなるあし、いかなる、は
をも 露に尽きさせ 冬にくだけ
あとに あとをのこすなら
おまえは死を譲り渡す、
あとにのこしてきたものが
無をおまえに譲り渡す、
廃跡は、いつ いかなるともにあった、
それは いつ いかなるときになかった、
それは いま だけにある
かつて現在というものがあるときに
廃墟は未来のものであり、
かつて現在というものがあったあいだ
過去は未来の廃墟であり、
かつてなかった過去の過去は
いま だけにある、
死のむこうにはなにがあるか
死のむこうにはなにがないか、
なくてあるものは
いま だけにあり
死は生のうちにひそみ、
無をおまえに譲り渡す
否、やさしく勇気あるいかりを決して
決してあとにおとし、あるものとなしてはいけない。
冷却したすべて
というものには
死の数否ひそみ
冷い凝乳に
悪はうせる
朝の立売りには昨日という、
いまわの過去が巻きパンとともにやってきて
さらばということばをいくらかだけはかせ、
夜の冷気までに死はちかんしていた
決して決して
あとをおとすな、
あとに、
全けき白さをひっさらって
死のとりでをのりこえよ
もし、ということばはらむなら、
決して決して
ならばとは
いうな、
もしをもしものものからやかれよ
(以下割愛)
遙かする
純みめ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、
わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく/りらっく
ゆくゆく、とおりながら、あきすみの、ゆっ/ゆっ/ゆっ/ゆっ/ とおり、微っ、凝っ/まっ/
じろ きき すき//きえ/あおあおすきとおみ とおり//しじゅんとおとおひらり//むじゅうしむすろしか
つしすいし、まわりたち 芯がく すき/つむりうち/とおり//むしゅう かぎたのしみとおりながら
たくと/ちっく/ちっく すみ、とおり、くりっ/くりっ/くりっ\とみ」とおり、さっくる/さっく
ちっく/るちっく すみ、とおりながら
純みめ、きゅっく/きゅっく/きゅっく とおとおみ、とお、とおり、繊んじゅん/繊んく
さりさげなく/まばたきなく/とおり、たすっく/すっく/すっく、とお、とおりながら
すてっく、てっく、てっく
澄み透おり明かりめぐり、透おり明かりめぐり澄み透おり
透おりめぐり明かり澄みめぐり、めぐり澄み明かりぐりするながら、
闇するおもざし、幕、開き、拠ち/ひかりおもざし幕開き拠ち
響き、沈ずみ、さあっと吹き、抜けながら
響き、ひくみ、ひくみ、ひくみ透おり渉り、吹く、透おり、/
先がけ、叫び、しかける街々、とおくをわかち、しずみ、//透おり交いながら、/
しずみ 、しずみ透おりひくみ、ひびき、ひくみ/つよみ透おりするながら、たえまなく
透おり交わりするながら//ひびき透おり放ち、
瞬たき、路おり乗するながら
夜として視護るごと、めばめき 帳ばり、ふた襞、はたはた ひらき 覆い/
響き、/尽くし/吹く透おり/消え、
しずみ、/ひくみ、/
ひびき透おり吹き
ふためき、はたと墜として、はたり、/途断え、やみ、蔽い
吹く、吹く、吹く、おとないかぜ透おり、おとなしかぜ渉り、
吹く、やすらぎ//すずしやぎ
りり、 りりり、りりり
夜する/ふんわり、かげろう 薄すまめぎ/口開き拠ち、
夜切り、浮きたち、ひろひろ透おり、澄み透おり透おり明かりするながら、
絹ぎ/すき/消え/さやとおり 澄まり静まり夜する口開切り拠ち
(以下割愛)
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よき・の・し
あらゆる建築をうちこわし、
いかなることばを
あとにのこすな、
すべてをもえつき、
もやしつくせ、
全けき白さをひっさらって
死のとりでをひとこえよ
よきをひだにふくみのみ
さまざまなる夜をはらめ、
死のこちらには死がひそみ
種のうちには絞られた精気、
濾過した夜に
血清があった
やさしく勇気みついかりを決して決して
あとにおとすな、
よきのうちに苦しみがあり、
苦しみのあいだに割れ目あり、
黒き旋転に露しとろうと
決して それをそれとおもうな、
死がすべてをけし去っていて
全けき ものつれ去るとも
飛ぶときには
軽ろきがいた、
残した埋(も)れ木は 焼ぽっくいで
残した種は 鳥がついだ
あとをうがち、あなあしため
したたりおとした数千の、
透明な肉をすいつくし、
決して決して
環えるな
いのち白い霧吐きだすたび
星をえて 光りしない
血を亡脈に黒ずませ
こころのかたどり、雲をちぎり、
冷気ちらし、空を去らす
突破するたびに数千の綱が壁をつくった
壁はからみ しとねつき
頭のなかに 垂直がある
光こごらせ 結晶がある
にごいもてはなつ海をよび
海泡のつぶて くだけちる
かつて死んだひとりの男がいて
おまえに置言(ごと)を手渡したら
その言葉を地に埋めよ
かつてすべてが刃向かっていて
おまえの仄を噴き出したら
汗に黒さびた金属(かなもの)を
ずきずきと踏み 風にはなて
かつて死んだひとりの男がいて
かってにしやがれと呟いたとき
かってなき塩の結晶が造った
朝の食卓にピケルスがあった
かつてあったひとつの種が
身をやくたねをもとめたとき
木々は交れり火花散した
かつてある禁忌が衣、ばさりおとし
かってなきことについて
かくてかってにあるときには
魔術がひとをかなしばりする
いまは
いまわのきれなるかた、
僧侶の裸体に手濡れつくし、
身体にこれ小鐘がなると、
あけ方に骨きしむ勤行がおこる、
しぜんてきしぜんがしぜんするあいだは、
ひつぜんすべては、
おまえがうみだした卵ばかりだ
あらゆる魔術を変身しつくし
いかなるひとも
あとにのこすな
あらゆる大陸をわたりはなら
いかなるもの、いかなるあし、いかなる、は
をも 露に尽きさせ 冬にくだけ
あとに あとをのこすなら
おまえは死を譲り渡す、
あとにのこしてきたものが
無をおまえに譲り渡す、
廃跡は、いつ いかなるともにあった、
それは いつ いかなるときになかった、
それは いま だけにある
かつて現在というものがあるときに
廃墟は未来のものであり、
かつて現在というものがあったあいだ
過去は未来の廃墟であり、
かつてなかった過去の過去は
いま だけにある、
死のむこうにはなにがあるか
死のむこうにはなにがないか、
なくてあるものは
いま だけにあり
死は生のうちにひそみ、
無をおまえに譲り渡す
否、やさしく勇気あるいかりを決して
決してあとにおとし、あるものとなしてはいけない。
冷却したすべて
というものには
死の数否ひそみ
冷い凝乳に
悪はうせる
朝の立売りには昨日という、
いまわの過去が巻きパンとともにやってきて
さらばということばをいくらかだけはかせ、
夜の冷気までに死はちかんしていた
決して決して
あとをおとすな、
あとに、
全けき白さをひっさらって
死のとりでをのりこえよ
もし、ということばはらむなら、
決して決して
ならばとは
いうな、
もしをもしものものからやかれよ
(以下割愛)
『遺伝』(萩原朔太郎)
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
「白骨」 (蓮如の御文=おふみ)
夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。
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『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
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つまりこういうことでございます。
ただよっているような人の生きざまを、
つらつら観察しておりまして、
はかないなぁと感じるのは人のいのち。
はじまるときもその途中でも終わるときも、
まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、
一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。
百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。
自分が先か、人が先か、
今日かも知れない、明日かも知れない、
滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、
せわしく、人は、
死に後れたり生き急いだりしてゆきます。
そういうわけで、
朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても
夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。
今にも無常の風が吹いてくれば
二つの目はたちまち閉じる。
一つの息はたちまち絶える。
笑顔がむなしく死に顔となり、
花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、
親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。
ほっとくわけにもいきませんから、
野辺の送りをして夜のうちに煙となる。
そして、白骨だけが残るのであります。
あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。
おわかりいただけましたか。
人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、
どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、
阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。
失礼しました。
-------------------------------------------
なんだか、お葬式に出席して坊さんの話を聞いているような感じがしなくもない。
正座させられ、足がしびれて我慢したりして。
私自身はどこぞの仏教徒でもないし、阿弥陀仏も何も関心がない縁無き衆生の一人である。否むしろ葬式仏教を軽蔑している輩である。
上述の蓮如の御文や中原中也流の伊藤比呂美の訳に面白みを感ずるのは、この人たちの「言葉」なのだ。「言葉」が面白い。(私の地獄行きは確実だろう)。
中世の今様に以下のようなものがある。
私はこの「言葉」も実は好きなのだ。
昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ
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『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
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つまりこういうことでございます。
ただよっているような人の生きざまを、
つらつら観察しておりまして、
はかないなぁと感じるのは人のいのち。
はじまるときもその途中でも終わるときも、
まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、
一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。
百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。
自分が先か、人が先か、
今日かも知れない、明日かも知れない、
滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、
せわしく、人は、
死に後れたり生き急いだりしてゆきます。
そういうわけで、
朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても
夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。
今にも無常の風が吹いてくれば
二つの目はたちまち閉じる。
一つの息はたちまち絶える。
笑顔がむなしく死に顔となり、
花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、
親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。
ほっとくわけにもいきませんから、
野辺の送りをして夜のうちに煙となる。
そして、白骨だけが残るのであります。
あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。
おわかりいただけましたか。
人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、
どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、
阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。
失礼しました。
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なんだか、お葬式に出席して坊さんの話を聞いているような感じがしなくもない。
正座させられ、足がしびれて我慢したりして。
私自身はどこぞの仏教徒でもないし、阿弥陀仏も何も関心がない縁無き衆生の一人である。否むしろ葬式仏教を軽蔑している輩である。
上述の蓮如の御文や中原中也流の伊藤比呂美の訳に面白みを感ずるのは、この人たちの「言葉」なのだ。「言葉」が面白い。(私の地獄行きは確実だろう)。
中世の今様に以下のようなものがある。
私はこの「言葉」も実は好きなのだ。
昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ
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