2014年8月21日木曜日

「白骨」 (蓮如の御文=おふみ)

夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。
------------------------------------------------------
『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
-----------------------------------------------------
つまりこういうことでございます。
ただよっているような人の生きざまを、
つらつら観察しておりまして、
はかないなぁと感じるのは人のいのち。
はじまるときもその途中でも終わるときも、
まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、
一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。
百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。
自分が先か、人が先か、
今日かも知れない、明日かも知れない、
滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、
せわしく、人は、
死に後れたり生き急いだりしてゆきます。
そういうわけで、
朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても
夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。
今にも無常の風が吹いてくれば
二つの目はたちまち閉じる。
一つの息はたちまち絶える。
笑顔がむなしく死に顔となり、
花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、
親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。
ほっとくわけにもいきませんから、
野辺の送りをして夜のうちに煙となる。
そして、白骨だけが残るのであります。
あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。
おわかりいただけましたか。
人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、
どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、
阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。
失礼しました。
-------------------------------------------
なんだか、お葬式に出席して坊さんの話を聞いているような感じがしなくもない。
正座させられ、足がしびれて我慢したりして。
私自身はどこぞの仏教徒でもないし、阿弥陀仏も何も関心がない縁無き衆生の一人である。否むしろ葬式仏教を軽蔑している輩である。
上述の蓮如の御文や中原中也流の伊藤比呂美の訳に面白みを感ずるのは、この人たちの「言葉」なのだ。「言葉」が面白い。(私の地獄行きは確実だろう)。

中世の今様に以下のようなものがある。
私はこの「言葉」も実は好きなのだ。

昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ