『鬼の研究』(馬場あき子) (三一書房版『馬場あきこ全集・第4巻・古典評論』より)
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私はもういちど、<おに>と<かみ>とが同義語であったかもしれぬいう説にたちどまらざるを得ない。それは、いいかえれば人間の心に動く哀切の両面である。空気の清澄な月夜の夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日頃姿を見せぬことを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏するなど、まことに哀れである。その時、鬼の心に去来した瞬時の回想は何であったろう。吟遊の声を奪って詩の下句を付し、敬愛する詩人の門前に拝礼をなして過ぎゆく鬼の心に、常ならぬ心の高鳴りを覚えるのも、じつに、あるいはわれわれ自身が、孤独な現代の鬼であることの証拠かもしれない。 (12頁)
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この「虫めずる姫君」という短編をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿である。人びとから嫌悪される毛虫や蛇の動きに、あまねき生きものの真摯にして苦しげないのちのさのをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を感受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。(16頁)
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貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちに保ってきたそれら魂の美しさを<鬼>と呼ぶことは、ほのかな自嘲を交えた合ことばあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞である。(20頁)
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「斉明期」は七年七月天皇の崩を記し、八月一日の夕べ「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほい)を臨み視る」という記事をのせている。(27頁)
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<鬼とはなにか>を考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意思や姿であって
(中略) 爛熟し頽廃にむかいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象を受けるのである。(106頁)
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<鬼>とは破滅的な内部衝迫そのものであり、心の闇に動く行為の闇であ。あるいはそれは極限的な心情のなかで、人間を放棄することを決意した心でもある。(144頁)
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私は女の鬼について考えるとき、いつもこの(鉄輪の女)の殺害未遂に終わった場面を、ことさらかなしく美しく思い浮かべる。敗北し、守護神に逐われて深沈混沌とした心の闇に帰ってゆく鬼女の後姿にはまったく成功のかげがない。たとえもう一度、いや何度試みたとしてもとうてい夫を殺すことはできそうもないその心は、鬼と化してもなお深く愛しきっている弱さにおののいている。
(中略)
鬼とは所詮調伏されねばならぬものである。人間を放棄してまでも報いようとした怨みとはどれほどのものであったろう。その怨みゆえに鬼に変貌ののちに見たものは、悔しくも変貌しきれぬ夫への恋着であり、愛執であった。とはいえ、それがどう解決のつくことであったろう。鬼になっても、ならなくても、愛することと、愛されぬこととは、けっして解決のつかない心の闇に属することなのであって、女にはいっそう厳しく、変貌をとげてしまった現実だけが残ったにすぎないのである。 (146頁)
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『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ2
昨日に続き此の本での印象的な文章を抜粋する。
この本を読んでの私の簡単な感想を最後に書いておく。
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。
その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。
ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。 (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
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<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。
つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。 (148頁)
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それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。
般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。 (185頁)
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<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。
<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。
徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。 (197頁)
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。
その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。
ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。 (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
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<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。
つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。 (148頁)
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それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。
般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。 (185頁)
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<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。
<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。
徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。 (197頁)
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