深夜の十禅師(じゅうぜんじ)社に額づいて祈る女性が、突如として
『とてもかくても候なうなう』
(この世のことはともかくとして、この現世無常の有様をみるにつけ、どうぞ後生だけは救ってください。)
と叫ばずにはいられなかった。 馬場あき子全集エッセー1
酷薄な生と死の混淆---能面の生と死 より。p359
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いちごんほうだん【一言芳談】
『一言芳談抄』が『徒然草』に匹敵する作品だという古典文学上の解釈はつまらないことである。あの美しさがどこかへ消えたのか、自分の心身のある状態だけが消え去ったのか。そんな子どもらしい疑問、美学の萌芽ともいうべ状態には反抗しないが、美とは何かを追究する美学に行き着くつもりはない。
あの一文を思い出した時、余計なことは何一つ考えなかった、ただ満ち足りた時間、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている時間であった。満ち足りた時間である。うまく思い出しているのでなく、鎌倉時代を実に巧みに思い出していた。
歴史の新しい解釈という思想は、魅力ある手管めいたものを備えているので、逃れるのが難しい。一方、歴史は動かし難い形で、新しい解釈などにはびとともせず、いよいよ美しく感じられる。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。生きている人間は、何を考えているのか何を言いだすのかわからないので、仕方のない代物である。一方、死んだ人間は、はっきりとしていてたいしたものだ。死んでしまった人間は、動くことのない人間の形をしているが、生きている人間は絶えず変化し続ける一種の動物である。
歴史には死人しか現れず、動じないので美しい。過去の思い出(歴史)が美しいのは、過去が余計な思いをさせてからである。思い出が僕らを一種の動物であることから救うとは、思い出が僕らに余計なことをあれこれ考えさせず、動じない存在にしてくれるからである。記憶するだけでなく、思い出さなければならない。
上手に思い出すことが、過去から未来に向けてただなんとなくつながっている時間という面白みのない思想から逃れる唯一の手段である。この世が無常であることは、動物的状態である。なま女房はそれに気づいて現世はどうでもいいが後世に望みを託したが。常なるものを見失った現代人は無常ということがわかっていない。
Q 或るひと云く、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくとも候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云く、生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけたまへと申すなり、云々。
です。表記は全て原文通りです。テストは3日後なので、出来るだけ早くお願いします。
この文章の趣旨だけお願いします。
【なま女房】=若い女房
【候】=丁寧語 十禅師への敬意
【れ】=受身の助動詞
【候】=丁寧語 人への敬意
【たまへ】尊敬語 十禅師への敬意
【申す】謙譲語 十禅師への敬意